1964年に開催された、第2回日本ブランプリで、ポルシェ904カレラとの激闘を演じて注目を浴びたクルマがありました。
それがプリンス自動車から販売されていた、スカイライン2000GTでした。
プリンス自動車が1500ccクラスの小型自動車として開発をした2代目スカイラインのボディに、直列6気筒のSOHC2000cc(ウェーバー製キャブレター3連装)を積んでしまったモンスターマシンです。
プリンス自動車は1966年に日産と合併することになりますが、スカイライン2000GTのDNAはそのまま受け継がれ、その後のハコスカGT-Rのレースにおける大活躍につながることになります。
直列6気筒エンジンを積むために強引に延長した2000GTのボンネット
2代目スカイラインは、1500ccクラスの小型車として1963年9月に発売されたクルマでした。
プリンスチームは1964年に開催される第2回日本グランプリへの出場に向けて、このスカイラインのボディにグロリア用の直列6気筒エンジンを積むことを計画します。
しかし、もともと直列4気筒の1500ccにエンジンを積むことを前提に開発されたクルマですから、直列6気筒2000ccの大きなエンジンをボンネット内に納めることは不可能でした。
そこでプリンス自動車の開発チームは、ボンネットの長さを200mm延長して、無理やり直列6気筒のエンジンを積むという強引なやり方を採用したのです。
2代目スカイラインのもともとの全長は4055mmでしたが、ボンネットの部分を200mm長くして4255mmとしてしまったのです。
スカイライン2000GTのボンネットがやたら長く感じるのは、そういった開発の経緯があったからなのです。
スカイライン200GTはレースに出場するために100台限定で制作されました
第2回日本ブランプリに出場するための条件として、過去1年間に100台以上生産されたクルマでなければならないというものがありました。
そのため、スカイライン2000GTは100台の限定生産という形で1964年5月に発売されることになります。
この時のモデルは、あくまでもレースに出場するために、限定生産したものでした。
生産された100台のうち約30台がレース用に使われ、市販されたのはわずか70台ほどだったといわれています。
当時の販売価格は、標準のシングルキャブレター仕様(ウェーバー3連装キャブレターはオプション)で88万円でした。
当時の大卒初任給が2万円ほどでしたから、いまの物価に換算すると800万円以上になると思います。
ものすごく高価なクルマであったことは間違いありませんが、現在日産から発売されているGT-Rは1000万円以上しますから、それを考えるとむしろ安いといえるのかも知れません。
その後、スカイライン2000GTは1964年2月に、フロントにディスクブレーキを採用し、レースモデルと同様のウェーバー製のキャブレターを3連装して、本格的に発売されることになります。
最高速度180km/h・ゼロヨン17秒の俊足を誇った2000GT
もともと1500cc用に開発されたボディに、2000ccのエンジンを積んでしまったわけですから、スカイライン2000GTが遅いはずはありません。
当初のシングルキャブレター仕様でも、最高出力105psを発揮して、最高速度は170km/hに達しました。
現在のクルマと比較すると驚くほどの性能ではありませんが、当時は最高速度が150km/hを超えるような国産のセダンはほとんどありませんでした。
さらに、ウェーバーキャブレターを3連装したタイプのモデルになりますと、最高出力は125psまでアップされることになります。
ボディの重さは1070kgと、現在のホンダフィットなみの軽さですから、その動力性能のすごさは容易に想像がつくことでしょう。
最高速度は180km/hとなり、ゼロヨン加速も17秒という俊足ぶりでした。
スタイル的にはただのセダンであるスカイライン2000GTが、スポーツカーをもしのぐような高性能を発揮したことから「羊の皮を被った狼」などと呼ばれました。
赤いエンブレムが自慢だったスカイライン2000GT-B
1965年2月に本格的に発売されたスカイライン2000GTは、ウェーバー製のキャブレターを3連装したタイプのみでしが、1965年9月にはシングルキャブレター仕様のジェントルな2000GT-Aが発売されることになります。
その結果、ウェーバーのキャブレターを3連装した125ps仕様タイプは、2000GT-Bと呼ばれることになります。
このスカイライン2000GT-Aと2000GT-Bに外観的な違いはなく、唯一「2000」と書かれたエンブレムの色が異なりました。
GT-Aは青いエンブレムだったことから「青バッチ」と呼ばれ、GT-Bは赤いエンブレムのために「赤バッチ」と呼ばれました。
当時の走り屋たちにとっては、まさにこの「赤バッチ」はあこがれの的だったわけです。
いまのクルマと比較すると非常にコンパクトだったスカイライン2000GT
最近の国産車のボディは、日本人の体形が大きくなっていることもあり、どんどん大型化しています。
しかし、スカイライン2000GTが発売された1960年代半ばの国産車は、どのクルマも非常にコンパクトでした。
スカイライン2000GTのボディサイズは、全長が4255mm、全幅が1495mm、全高が1410mmとなっています。
ちなみに、現在のGT-Rのボディサイズは、全長が4650mm、全幅が1895mm、全高が1370mmとなっています。
全高を除いて、二回り以上大きなサイズになっていることがお分かりになるかと思います。
ちなみに、日産のコンパクトカーであるノートのサイズが、全長4100mm、全幅1960mm、全高1525mmとなっています。
ノートとくらべて、かろうじて全長が155mm長いだけで、全幅も全高も完全に負けています。
とくに、スカイライン2000GTの全幅は1495mmですから、現在の軽自動車とほとんど変わりません。
3人掛けとなっている後部座席は、さぞかし窮屈だったろうと想像できます。
スポンサーリンク
ポルシェと対等に戦って一躍脚光を浴びたスカイライン2000GT
2代目スカイラインが発売された当時は、市販車の注目をあびるための一番手っ取り早い方法がレースに勝つことでした。
そのため、プリンス自動車はスカイライン2000GTを第2回日本ブランプリに送り込むことにしたわけです。
実際のレースでは、式場壮吉の乗るポルシェ904カレラGT-Sと生沢徹の乗るスカイライン2000GTがデッドヒートを繰り広げることになりました。
結果的には、ポルシェ904が優勝をすることになりますが、7周目には生沢徹のスカイラインがポルシェをかわして1位になる場面もあり、会場を大いに沸かせました。
まさに、このときからレースにおけるスカイライン伝説がはじまったわけです。
その後、プリンス自動車を合併吸収した日産自動車から販売された、3代目スカイライン(ハコスカ)のGT-Rが、レースで49連勝という記録を作ったのはあまりにも有名な話です。
GTというのはグラン・ツーリスモの略ですが、GT-Rの「R」はまさに「レーシング」を意味していました。
第2回日本グランプリから始まったスカイラインのレース参戦ですが、GT-Rで完全に花開いたわけです。
当時は、「GT-Rは勝って当たり前」「GT-Rが負ければニュースになる」などといわれました。
1969年10月10日に行われた日本ブランプリの前座レースでは、GT-Rが1位から8位までを独占するという圧倒的な強さを見せつけました。
そんなスカイラインGT-Rの前に立ちはだかったのが、マツダのロータリーエンジンでした。
無敵であったGT-Rに対して、マツダファミリアロータリークーペがしばしばデッドヒートを演じるようになったのです。
そして1972年に、TS-bレースに出場したマツダサバンナRX-3が、GT-Rの50連勝を阻止して1位から3位までを独占してしまったのです。
49連勝をサバンナRX-3に阻まれたハコスカGT-Rですが、その後もいくつかのレースに勝利して通算で52勝をあげますが、マツダのロータリー勢の勢いを止めることはできず、レース界から去っていくことになります。
文・山沢 達也
スポンサーリンク