国内第3位の自動車メーカーとなっているホンダですが、最近ではファミリーカーが中心のある意味では無難なクルマを中心に販売しています。
しかし、草創期のホンダは、いまの常識では考えられないような奇想天外なクルマを制作していました。
創業者で天才エンジニアでもある本田宗一郎の影響が大きいのだと思いますが、本当に既成概念にとらわれないワクワクするような車が当時のホンダから販売されていました。
ここでは、ホンダが自動車メーカーとして走り出した当時の個性的なクルマや、創業者である本田宗一郎の感動的なエピソードなどを紹介してみたいと思います。
参考記事:ホンダの歴史(創立から現在)
ホンダ初の4輪車はDOHCエンジンの軽トラックT360
ホンダは、日本の自動車メーカーのなかでは後発組といえます。
もともとはバイクメーカーであったホンダが、1963年に初めて販売したクルマがT360という軽トラックです。
しかし、この軽トラックがただものではなかったのです。
T360には、バイクの技術で培った高性能なDOHCの4気筒エンジンが搭載されていたのです。
軽トラックに限らず、当時の軽自動車というのは排気量が360ccでしたので、2気筒のエンジンが主流でした。
軽自動車に4気筒のエンジンを搭載するだけでも衝撃なのに、当時はレーシングエンジンにしか採用されていなかったDOHCエンジンを搭載していたのです。
つまり、レース用のエンジンを軽トラに積んでしまったようなものです。
当時人気になっていた軽自動車であるスバル360の最高出力が16psであったのに対して、ホンダのT360の最高出力は30psもあったのです。
しかも、スバル360の最高出力時のエンジン回転数が4500rpmなのに対して、T360の最高出力発生時のエンジン回転数はなんと8500rpmでした。
当時、日産が制作していたR380というレーシングカーの、最高出力発生時のエンジン回転数がまさに8500rpmでした。
つまり、レーシングカーなみの超高回転エンジンを軽トラックに積んでしまったわけです。
もちろん軽トラックでレースをするわけではありませんし、普段は荷物を積んでゆっくりと走るクルマです。
高回転エンジンの宿命として、どうしても低速トルクが不足しがちになりますから、実用的には決して運転しやすいクルマではなかったと思います。
しかし、後発メーカーとして4輪業界に乗り込む本田宗一郎の意気込みを感じさせる車であることは間違いありまえん。
バイクのようにチェーンで後輪を駆動させていたS500
最近の車はFF形式のものが多くなっています。
つまり、フロントにエンジンを積んで前輪を駆動させるタイプです。
しかし、ホンダが4輪業界に進出した当時は、フロントにエンジンを積んで後輪を駆動させるFRという形式が一般的でした。
このFR形式の場合には、エンジンの出力をドライブシャフトと呼ばれる棒でデファレンシャルを介して後輪に伝えられます。
つまり、エンジンからの出力は、すべてシャフトとギアを経由して後輪のタイヤに伝えることになります。
ところが、ホンダから1964年に発売されたS500というスポーツカーには、チェーンアクスルという方式が採用されていました。
チェーンアクスルといのは、分かりやすくいえばバイクの駆動方式です。
チェーンによってエンジンの出力を後輪のスプロケットに伝えてタイヤを駆動させるわけです。
もともとバイクメーカーだったホンダだからこそ、そういったアイディアが浮かんだのでしょう。
このチェーンアクスル方式による市販車は、S500のあともS600、S800と引き継がれています。
チェーンで後輪を駆動させていたのは、バイクや自転車だけではなかったのですね。
空冷エンジンにこだわって失敗したホンダ1300
現在の車は水冷式を採用しています。
つまり、ラジエーターにより冷やされた冷却水をシリンダーの周りを循環させることで、エンジンの発熱をおさえています。
ところが、ホンダの創業者であり天才エンジニアである本田宗一郎は「水冷よりも空冷の方が優れている」という持論をもっていました。
バイクメーカーとしてトップを走っていたホンダゆえの、こだわりがあったのだと思います。
そんな本田宗一郎のこだわりのもとに1968年に発売されたのが、ホンダ1300という1300ccの車です。
このクルマのエンジンには、DDACと呼ばれる空冷式のエンジンが採用されていました。
しかし、天才エンジニアのこだわりであったホンダ1300は、商業的には失敗でした。
複雑な構造のエンジンゆえに、重量が重くなってしまったり、コストがかかってしまったりと、空冷エンジンのメリットが薄れてしまった形になり、車そのものも販売不振を招いてしまったのです。
この空冷エンジンにこだわる本田宗一郎と、若手技術者との間に対立があったことはあまりにも有名な話です。
その後にホンダの3代目の社長となる久米是志が辞表を提出して、出社拒否をしたほどの対立でした。
「水冷のほうがエンジン各部の温度を制御しやすい」という若手技術者の主張に対して、本田宗一郎は「エンジンを水で冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初からエンジンを空気で冷やしたほうがいい」とゆずりません。
技術者たちに助けをもとめられた当時副社長であった藤沢武夫は、本田宗一郎に対して「あなたは社長なのか技術者なのかどちらなんだ」と説得をすることになります。
これまで二人三脚でホンダをここまで成長させてきた共同経営者でもある藤沢の言葉に、頑固おやじであった本田宗一郎も折れたといわれています。
晩年になって本田宗一郎は、当時の空冷エンジンに対する自分のこだわりは失敗だったと素直に認めています。
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世界の技術者たちが衝撃をうけたホンダのCVCCエンジン
1970年にアメリカの大気浄化法が大幅に改正されました。
これは通称マスキー法と呼ばれるもので、当時は世界一厳しい排ガス規制法といわれ、クリアするのは不可能だと誰もが思っていました。
しかし、1972年にホンダが開発したCVCCというエンジンがこのマスキー法をクリアすることになり、世界中の技術者たちを驚かせることになったのです。
CVCCエンジンは、シリンダー内に副燃焼室をもうけ、薄い混合気(ガソリンと空気が混ざったもの)を通常の燃焼室に取り込み、濃い混合気を副燃焼室に取り込みます。
そして、副燃焼室に取り付けられたスパークプラグで燃焼させることで排気ガスをクリーンにするという仕組みです。
通常のエンジンは、1つのシリンダーに吸気と排気で2つのバルブがありますが、CVCCエンジンの場合には吸気側に通常の燃焼室用と副燃焼室用の2つのバルブがあるため、排気バルブと合わせて3バルブとなります。
もともと濃い混合気と薄い混合気を層状に折り重なるように燃焼させることで理想的なエンジンになるということは、1800年代に4ストロークエンジンが発明された当時からわかっていたことです。
しかし、多くのエンジニアたちがチャレンジしたにもかかわらず、この層状燃焼を成功させたものはいませんでした。
そんな幻の燃焼といわれた層状燃焼を、ホンダの技術者たちはとうとう実現させてしまったわけです。
本田宗一郎が引退を決意した理由と全国行脚の旅
このCVCCエンジンが完成した翌年の1973年に、創業者である本田宗一郎は二人三脚でホンダを支えてきた副社長の藤沢武夫といっしょに退任を決意しました。
CVCCエンジンの成功をみて、自分の会社の技術者たちの優秀さに気がつき、いつまでも自分が会社に残るべきではないと判断したのでしょう。
その後本田宗一郎は、これまでがんばってくれた従業員にお礼がいいたいと、全国にある数千カ所のホンダの販売店や工場をまわる全国行脚の旅に出ました。
1日に400kmほども移動することがあったそうです。
そして、行く先々で従業員一人ひとりと握手を交わしました。
ある工場で、本田宗一郎が整備をしているスタッフに握手をもとめたところ、そのスタッフは油だらけの自分の手をみて、思わず手を引っ込めてしまったそうです。
すると本田宗一郎は「いいんだよ。俺も技術屋だからその油の臭いが好きなんだ」とそのスタッフの手の臭いをかいだそうです。
ホンダの従業員にとって雲の上の存在である本田宗一郎にそういわれた整備のスタッフは、感激のあまり涙が止まらなくなってしまったそうです。
こんな素晴らしい創業者がいたからこそ、いまのホンダの繁栄があるわけですね。
文・山沢 達也
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