昭和30年代に交通事故が多発したときに「交通戦争」などと言われたことがあります。
これは、日清戦争のときの戦死者の数が2年間で1万7千人だったのに対して、交通事故による死者の数がその数に迫る勢いで伸びていたために、「交通戦争」などという言葉が誕生したといわれています。
実際に、交通事故による死者の数は、ピークとなる1970年には16,765人となっています。
日清戦争での2年間での戦死者数とほぼ同じ数の人が、1970年1年間だけで亡くなっているわけです。
まさに、交通戦争という表現は大げさではないといえます。
ところが、45年後の2015年には、交通事故による死亡者数は、4,117人にまで減っています。
1970年のピーク時とくらべると、4分の1にまで減ったことになります。
なぜ、交通事故による死亡者数は、これほどまでに劇的に減ったのでしょうか?
交通事故の発生状況(警察庁):https://www.npa.go.jp/toukei/koutuu48/toukei.htm
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安全対策が不十分であった1970年当時のクルマ
1970年当時は、現在のおよそ4倍にあたる16,765人もの人が交通事故で亡くなっていたわけですが、いったい何が原因だったのでしょうか?
確かに、当時のクルマの安全性能は低いものでした。
ブレーキは4輪ともドラム式が主流だったために、水たまりに入ったり長い下り坂道などで効きが悪くなってしまうことは、ごく普通にありました。
もちろん、エアバッグなどというものもありません。
また、シートベルトの着用義務はなく、しかもシートベルト自体も現在のような3点式ではなく、腰の部分だけを固定する2点式の簡易なものでした。
しかも、当時はシートベルトの設置義務があったのは運転席のみで、他の座席にはシートベルトが設置されていないクルマが普通に販売されていたわけです。
1975年には、すべての座席にシートベルトの設置が義務付けられましたが、それを着用する義務はありませんでした。
1971年の道路交通法の改正によって、運転席と助手席に「シートベルト着用の努力義務」が課されることになりましたが、あくまでも「努力義務」であり、罰則などはありませんでした。
1985年になって、初めて高速道路を走るときにのみシートベルトの着用が義務化されました。
一般道において義務化をされたのは、なんと1992年になってからです。
このように、当時のクルマを取り巻く安全への対策や装備というのは、いまから考えるとかなりお粗末なものであったことは間違いのないところで、交通事故によって運転者が死亡をする確率が現在にくらべてはるかに高かったのは当然といえます。
交通戦争の一番の犠牲者となったのは歩行者
しかし1970年当時、交通事故によって一番の犠牲者となったのは、ドライバーではなく歩行者だったのです。
その中でも、幼児が犠牲になることが多かったのです。
いったい、なぜ当時は多くの歩行者が交通戦争の犠牲となってしまったのでしょうか?
まず、歩道やガードレール、歩道橋、信号機などといった、歩行者を交通事故から守るためのインフラの整備が十分でなかったことがあげられます。
特に交通整理におけるかなめともいえる信号機の数は、現在とくらべて圧倒的に少なく、1970年には全国で23,000基ほどしかありませんでした。
しかし、現在では信号機の数は200,000基ほどあり、日本は世界で一番信号機の多い国となっています。
酒気帯び運転に寛容だった時代
また、1970年当時は車を運転するドライバーに対する取り締まりなども非常に甘いものでした。
いまでこそ酒気帯び運転は厳罰化されていますが、処分の甘かった1970年当時は、居酒屋でお酒を飲んだ人が車を運転して家に帰るなどということが、ごくあたり前のように行われていました。
当時の人気ドラマであった「太陽に吠えろ」で、石原裕次郎が演じる藤堂係長が、スナックでお酒を飲んだあとに、何食わぬ顔をして車に乗って帰るというシーンがありました。
「警察官がスナックでお酒を飲んで車で帰る」などというシーンをいま放映したら、大問題になるはずですが、当時の人たちはそういったシーンをみてもまったく違和感がなかったのでしょう。
それほど、お酒を飲んで車を運転するということに対する、罪の意識がない時代だったのです。
2002年5月までは、呼気中アルコール濃度が0.25ml以上で酒気帯び運転となり、違反点数は6点でした。
しかし、現在では条件がずっと厳しくなり、呼気中アルコール濃度が0.15ml以上で酒気帯び運転が適用されることになり、違反点数も13点となります。
ちなみに、現在では呼気中アルコール濃度が0.25ml以上あった場合、違反点数は25点となっています。
同じ0.25mlであっても、2002年以前にくらべて4倍以上も違反点数が増えることになったのです。
また、酒気帯び運転に対する罰則も、2002年以前は3年以下の懲役または5万円以下の罰金だったのに対して、現在は3年以下の懲役または50万円以下の罰金と、一気に厳罰化されています。
厳罰化されたというよりも、2002年以前が酒気帯び運転に対して甘すぎたといった方が正しいかも知れませんね。
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医療技術の進歩・携帯電話の普及・救急救命士の活躍
車そのものの安全性能が向上したことや、信号機や歩道などのインフラ整備が進んだことが、交通事故による死者を減らすことになったことは間違いのないところです。
しかし、交通事故の死亡者数が大幅に減った原因は、どうやらそれだけではないようです。
なぜなら、交通事故の死亡者数が45年間で4分の1に減ったにもかかわらず、交通事故そのものの発生件数はそこまで減っていないからです。
交通事故による死亡者数の一番多かった1970年当時の交通事故発生件数は、718,080件でした。
それに対して、2015年の交通事故の発生件数は、536,789件です。
確かに、45年前にくらべると減少はしていますが、死亡者の数が4分の1になったのにくらべると、それほど減っていない印象を受けます。
つまり、交通事故の件数そのものはそれほど減っていないのに、死亡者数だけが圧倒的に少なくなっているのです。
確かに、ドライバーはシートベルトの義務化やエアバッグの普及などの恩恵により、交通事故によって死亡する確率は大きく下がったに違いありません。
その結果、事故件数の減少数に対して死亡者数が大幅に減ったということも、十分に納得のできるところです。
しかし、交通事故による死亡者数が圧倒的に減っているのはドライバーばかりではなく、歩行者の死亡者数も同様に減っているのです。
歩行者ですから、シートベルトやエアバックの普及とは何の関係もありません。
それにもかかわらず、交通事故に遭遇した歩行者は1970年当時とくらべて、簡単には死ななくなっているのです。
その理由として考えられるのは、救急医療の進歩、携帯電話の普及、救急救命士の活躍などがあげられると思います。
・医療技術の進歩により救える命が多くなった
医療技術というものは、10年単位でものすごい進化をするものです。
現在と45年前では、医療技術や病院の設備に比較できないほどの大きな開きがあったと思われます。
1970年当時は、救急病院に瀕死の状態の負傷者が運び込まれたとしても、ICU(集中治療室)などがある病院はまだ限られていましたし、医療技術的にも現在にくらべて未熟だったことなどから、救えなかった命も多かったのだろうと思います。
交通事故による死亡者が劇的に減った背景には、救急医療技術の進歩があることは間違いのないところでしょう。
・携帯電話の普及により救急車の到着が早くなった
携帯電話の普及によって、事故を起こすと同時に救急車を呼ぶことができるようになったという点も、見逃せないと思います。
交通事故で重体となった患者の命は、一刻一秒を争う状況下にあります。
1970年当時は、近くに民家や公衆電話のない場所で交通事故を起こしてしまった場合、救急車を呼ぶまでに相当な時間のロスをしてしまっていたに違いありません。
交通事故による死亡者数の減少には、携帯電話の普及も少なからず影響していることは間違いのないところです。
・見逃すことの出来ない救急救命士の存在
1991年に制度化された救急救命士の存在も、見逃すことは出来ないと思います。
それまでは、救急車を呼んでも病院に到着するまでは、一切の治療を施すことは出来ませんでした。
そのため、せっかく救急車を呼んだにもかかわらず、病院に搬送したときには、すでに息が途絶えていたというケースも多かったと思われます。
しかし、救急救命士が救急車に同乗して、病院に到着するまでの間に救急救命措置をすることが認められたおかげで、多くの人の命を救うことができるようになりました。
救急救命士が使うAED(自動体外式除細動器)が普及してきたことも、多くの命を救えることになった理由の一つといえます。
このように、交通事故により死亡者数が劇的に減った背景には、クルマの安全性能の向上や歩行者を守るインフラの整備だけではなく、人を死なせないためのさまざま要因があったということがお分かりいただけたかと思います。
文・山沢 達也
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